• 主に長崎県、佐賀県を中心に元刑事のキャリアを活かし行政書士&災害危機管理に取り組んでいます。

運命

11月14日、札幌市の市道上で、走行中の軽乗用車のタイヤが外れ、歩道を歩いていた幼稚園児に衝突し、同児が意識不明の重体だという。この事故は、下り坂を走行中の加害車両の左前輪が外れ、たまたま父娘3人が上り坂の歩道を歩いていたときに、その女児に衝突したものである。

この事故は、通常の交通事故とは趣が違う。それに偶然が重なった事故でもある。まず、加害車両のタイヤが外れた際、下り坂を走行していたこと。下り坂であれば、当然タイヤはその方向に向かって転がる速度が上がるだろう。

そしてそのタイヤが転がった先は車道ではなく歩道であり、その歩道上を父娘が歩いていたこと。その歩道にはガードレールが設置されていたが、そのタイヤが外れた場所が、たまたまガードレールが途切れた場所であったということ。

交通事故はいつ、いかなる場所で発生するかわからない。車両同士だったり、車両と歩行者だったり、いろいろな形態の事故があるが、たまたまその時間にその場所を通行して事故に遭ったということはある。しかし、発生場所というのは、車道上や横断歩道上、交差点といった、通常は予測できる場所である。

ところが、この事故はあまりにも偶然が重なりすぎている。そもそもタイヤが外れることを予測することは容易なことではないが、タイヤが外れた場所と父娘が歩いていた場所が少しでもずれていれば、タイヤが外れた場所のガードレールが途切れていなければ、上り坂と下り坂をお互いが逆に進行していれば・・・と考えると、被害園児は不運としか言いようがない。

過去には、歩道上を歩いていた小学生や園児の列に車両が突っ込んで死傷させる事故も発生しているが、被害に遭った子どもらには何ら過失はなく、このような事故も運命を呪うしかない。

また、まさかこんな事故が起こるとはと思うものもあった。ある国道上を進行していた加害車両が、カーブを曲がり切れずに路外逸脱し、たまたまそこにあった小屋に突っ込み、その小屋で作業をしていた女性が死亡したものがある。通常での感覚では、小屋の中で作業中の人が交通事故に遭うのはあり得ないことだと思うだろう。

交通事故の中には、車両が大破しても運転者が全く負傷していないというものもあるし、逆に車両には全く損傷がないのに、運転者が死亡するものもある。

このような事故を振り返ると、人の運命を感じてしまう。人間は天命によって全うできる寿命も決まっているのではないか、そう思わざるを得ない。

警察現役のときには人の死と向き合ってきた。長崎大水害を経験したが、土砂に吞み込まれた人々もいれば、わずかの差で助かった人々もいた。事件や事故で命をなくす子どももみてきた。病気以外で、まさかこのような死を迎えるとはと思った事案もあった。

そのとき感じたのは人の運命だった。生きたくても生きれないのは、その人の天命ではないかと思ってしまう。誰も自身の将来のことはわからない。いつ、そういう運命が訪れるかもしれないということ。だからこそ、今を大切にすべきではないか。その日を悔いなく生きる、そうありたいと思う。

 

 

 

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