意味するところ
「群盲象を評す」という寓話があります。ご存じの方も多いと思いますが、今回、この寓話を取り上げたのは、現在、地上波やSNSなどから様々な情報が流れ、様々な主義主張・意見が語られているため、何が真実かわからないということを実感しているからです。
この寓話の意味するところは、昔、ある国の王様が、盲人たちを集め、各自に象を触らせ、各自が感じ取った象の印象を発表させたそうです。王様が「象とはどんな動物か?」とそれぞれに聞くと、脚を触った盲人は、「柱のような形をしたものだ」と言い、耳を触った盲人は、「大きな団扇のようなものだ」と言い、尾を触った盲人は、「ロープのようなものだ」と言い、脇腹を触った盲人は、「壁のようなものだ」と言い、鼻を触った盲人は「蛇のようなものだ」と言い、牙を触った盲人は、「ヤリのようなものだ」と答えたということです。
盲人たちは、それぞれ自分の実体験に基づいているため、自分の意見だけが正しく、他の意見は誤っていると確信しており、自己の主張を譲らなかったという話です。
それぞれが、自分が触ったところは象のほんの一部に過ぎないということを理解しているならば、他の意見が間違っているとは主張できず、他の主張にも耳を傾けるはずです。
ところが、盲人であるがゆえに全体を捉えることができず、自分が触ったところが全体だと信じ込んでおり、そのため他の意見に耳を傾けることができずに過ちに陥りやすいという教えです。
巷に溢れている情報を見ると、まさしく「群盲象を評す」かのごとく、小さいことをつつき合っているような感じさえすることがあります。
真実を見極める目は自分で養う
私たちは、日々様々な視点で物事を見ています。物事を分析するという点で言うならば、群盲象と似たような言葉に「虫の目 鳥の目」というものがあります。
虫の目とは、虫のように近いところから物事を注意深く見ることであり、それはそれで大切なことでもありますが、群盲に陥ることにもなりかねません。
鳥の目とは、鳥が空を飛ぶように物事を高いところから広く見渡すことであり、近くのものは見えないにしても、俯瞰することによって物事への理解が深まるのではないでしょうか。
情報が氾濫している現代社会では、その中で生活している私たちも「群盲象を評す」に陥ってしまう危険性を孕んでいます。
何が真実かを見極めるには、氾濫する情報に惑わされないことが大切です。情報を選択する力が必要なのです。そのためには局所的に物事をみるのではなく、大所高所から物事を見ることが大切だということです。
そう言いながら、何が真実かを見極めることはそう簡単なことではありません。どうすれば真実を見極めることができるか明快な回答があるわけでもありません。
というのも氾濫する情報の中には偏った情報だけを流すものもあるし、真実を隠ぺいするために流す情報だってあるからです。
私は前職のときに何が真実かを常に追い求めてきました。その経験から言いますと、ある情報の真偽を判断する場合、大所高所というのは、客観性があるか、裏付けがとれるか、理路整然としているか、その情報は全体のどの部分か、合理的なのか、整合性はあるのか、矛盾はないのかなど、自分で一つ一つ確かめていました。
現代社会のような情報が氾濫する中で、そんなことをいちいち確認することは無理があるし、そんな暇もないと思います。そこで提案したいのは、情報をそのまま受け入れるのではなく、その情報に対して疑ってみることです。本当にそうなのか疑問を持ってみることです。
また、逆のサイドから眺める必要もあります。同じ方向に立っていると、同じ見方をしてしまいます。そうすると真実が見えなくなってしまいます。逆のサイドから眺めてみると、その情報の目的や意図が見えてくる場合があります。
このコロナ禍においてもコロナに関する情報が錯綜しています。果たして何が真実なのか、そうやって情報を見極めていかないと情報に埋没してしまい、真実から遠ざかってしまうような気がします。