突然の訃報
私は、若い頃管区機動隊の隊員として3年間勤務しました。当時を振り返ってみると、過酷な訓練に耐え、厳しい現場を経験し、自分自身を磨き、そして仲間との絆を育んだ貴重な時間だったと思っています。
管区機動隊の任務と言えば、県内の事案対応ばかりでなく、他都府県からの要請があれば、そこに出動して治安維持活動にも当たります。細かいことは言えませんが、当時は全国各地に出動し、部隊活動を行っていました。
特によく出動したのが千葉県にある成田(東京国際空港)警備でした。現在では成田闘争という言葉は聞かれなくなりましたが、当時はまだ反対闘争が繰り広げられていた時期でもありました。今回の話はその成田警備出動のときに起こった出来事です。
家内と結婚したのは昭和61年2月でしたが、本来ならばその2か月前に結婚式を挙げる予定にしていました。結婚式を延期したのは理由があったからです。
私が所属する小隊は、昭和60年11月に10日間の成田警備出動を命じられました。その出動については事前にわかっていましたから、結婚式はその警備出動を終えた12月に挙行することにしました。
出動前に式場との打ち合わせを終了し、ハワイへの新婚旅行の手続きも全て終え、あとは無事に出動から帰ってくるだけでした。
家内の両親は、当時私がいた官舎のすぐ近くに住んでいました。出動する朝、義母からご馳走が入った3段重ねの重箱をいただき、「元気で行ってらっしゃい。」という温かい言葉もかけてもらい、官舎を後にしました。そのときの義母は何だか嬉しそうにしていました。
成田へ向かう道中、風呂敷に包んだその重箱の蓋を開けると、色とりどりの手料理が所狭しと入っていました。桃の節句や正月に料理を重箱に詰めていた昭和の時代の懐かしさに浸りながら、また新たな家族ができる幸せを感じながらその料理を堪能しました。
成田に到着したその日の深夜でした。宿営所で就寝していたとき、小隊長から呼ばれ、義母の訃報を受けました。突然のことでした。私を見送ったときの義母の元気な姿がまだ目に焼き付いていましたので、本当に信じられない出来事でした。
この出動から帰れば、重箱の手料理が美味しかったこと、隊員におすそ分けをしたら喜ばれたこと等々、伝えたいことがたくさんあり、そして家内の晴れ姿を見せて喜ばせたいと思っていただけに、それが実現できなくなったことが大きなショックでした。義母は急性心臓死でした。
今すぐにでも飛んで帰りたい気持ちを抑えながら、上司に対し、葬儀に参列するために部隊活動を離れてもいいかと伺いを立てることにしました。結婚式を挙げる前でしたが、私にとっては親同然です。天上人になる前に、それまでのお礼とお詫びをしたいという気持ちがありました。
ところが、私の願いはかないませんでした。当時の警察組織のことを言えば、何かあれば親の死に目にも会えないということを先輩から教えられていたのです。そのため嫌な予感はありました。私がいないと部隊活動に支障をきたすというのがそのときの上司の考えでした。
仲間の黙とう
私は自分の運命を呪いましたが、これも試練だと思うしかありませんでした。義母の葬儀の日にも警戒警備活動につきました。私は葬儀の時間がくれば、一人でそっと西(長崎方向)に向かって手を合わせるつもりでした。
そのとき一緒に行動していた部隊は佐賀県警の部隊でした。葬儀の時間がやってきました。私がこっそり西に向かって手を合わせると、「黙とう」という号令が後ろの方から聞こえ、私の所属小隊、そして佐賀の小隊全員が西に向かって黙とうを始めました。
私はびっくりしました。まさかこういうことになっていたとは・・・。義母の死は仲間の部隊にも伝わっていました。黙とうする仲間の姿を見たとき、私は涙が溢れて止まりませんでした。仲間の絆を感じずにはいられませんでした。
私は手を合わせながら、義母にはこんな形でしか送ってあげられなかったお詫びを伝えましたが、それと同時に仲間が義母のために1分間の黙とうを捧げてくれていることを心の中で伝えてあげました。義母にはきっと仲間の気持ちが届いたものと思いました。
仲間に礼を言おうとしたとき、熱いものがこみ上げて声になりませんでした。仲間も私の気持ちを十分にわかっていました。黙って頷く仲間のやさしい顔がそこにはありました。
出動を終え、長崎に帰るとまっすぐ義母の仏壇に向かいました。手を合わせ、すぐに駆け付けられなかったお詫びとそれまでの心遣いへの感謝を告げたのですが、遺影の義母は何だか微笑んでいるようにも見えました。
本来ならば喪に服していなければならないのでしょうが、そうするわけにはいきませんでした。1週間後に予定していた結婚式を延期するための準備にかからなければならなかったのです。すぐに招待者に対して延期のハガキを出し、式場にも延期を了承していただき、ハワイへの新婚旅行のキャンセル料を支払うなど、慌ただしい日々を過ごしました。
そして義母の49日が明けた昭和61年2月2日、無事結婚式を挙げることができました。管区機動隊の仲間も大勢駆けつけ、場を盛り上げてくれました。このとき親族のテーブル上には義母の遺影を立てかけましたが、きっと義母には喜んでもらえたものと思っています。