私は長崎新聞を購読している。目を通す順番としては、まず1面のコラム欄(水や空)、次いで社会面の事件・事故、次にローカル版、最後に声欄(みんなの広場)の投稿やお悔やみ欄である。政治面や国際面は殆ど見ない。何故か、報道の内容を信じていないからである。あまりにも偏った報道に辟易しているというのが正直なところだ。
私は、これまで真実は何かを追及する仕事をしてきた。真実を追及する場合、客観的な視点が求められる。物事の事実をピックアップし、そこに合理性があるか、信用性があるか、客観資料と事実が符合するか等を観てきた。中立的な立場を失ったら真実が見えてこないのだ。
現代は情報が錯綜している。その情報の中には、明らかにフェイクだと思うものもあるし、恣意的にたれ流しているものもある。客観性に乏しい情報が溢れている。これは既存のメディアにも言えることだ。このような現代社会では、情報を鵜呑みにするのではなく、一人ひとりが何が真実かを見極める目を養う必要がある。客観的な目で物事を観る姿勢が必要なのだ。
本日(6月21日)の朝刊のコラム欄(水や空)を読み、つい反論したくなってしまった。内容は警察に関するものである。断っておくが、警察を庇う気持ちはないし、警察に非があるならば大いに批判してもらいたいと思っている。ところが、本日のコラムはあまりにも客観性に乏しい独善的な考えに基づくものだと思えたからだ。
喜劇役者の古川ロッパの終戦翌年の大晦日の日記をとり上げ、ロッパが巡査に車を止められ、「仕事帰りです」と言うと、「ご苦労さま。除夜の鐘が鳴っていますよ」と巡査が言ったという。そのことをロッパは「日本はよくなる。いいなあ、巡査が人間の言葉を言うようになった」と日記に記したということだった。
そのエピソードから、記事では「警察のあるべき心を先取りした巡査がいたかと思えば、今なお弾圧を務めとした昔を引きずるような警察もある」と記し、さらに「鹿児島県警は、捜査資料が外に漏れた事件の関係先として、ニュースサイトを運営する男性宅を捜索した。情報源を割り出すための捜索だったのは想像に難くない。報道側が貫くべき情報源の秘匿など知ったことかーと、権力を振り回す横暴という弁えはあるか」と結び付けている。
このコラムを書いた記者に反論しよう。「弾圧を務めとした昔を引きずる警察もある」とは何だ。この記者は時代錯誤も甚だしい限りだ。
警察官の中には確かに不適格な者もいる。現実に不祥事を起こす輩もいる。組織がそれを排除できなかったことにも問題はあるが、それは個人の資質に帰結する。真面目な警察官が圧倒的に多いということを敢えて言わせてもらう。現職のときは、先輩も同僚も後輩も、みんなが県民のために頑張っていた。治安を守るためには県民に嫌われることもしなければならないこともあった。罵倒されようが、批判されようが、信念を貫かなければならないこともあった。この記者は警察の現場を知らないのか。「弾圧を務めとした昔を引きずる警察もある」とは何だ。今でも特高警察があると思っているのか。
また、この記者は鹿児島県警がニュースサイトの運営先を捜索したことに対し、「報道側が貫くべき情報源の秘匿など知ったことかーと、権力を振り回す弁えはあるのか」と批判している。
これにも反論させてもらう。刑事は法と証拠に基づいて事件を立証している。必要な捜査は遂げるーそれが刑事の信条である。その拠り所とするところは、市民の期待に応えられるかどうかだ。そのために刑事は地を這い、砂を噛むような捜査をする。捜査に手を抜くことは許されないのである。
この事件は国家公務員法の守秘義務違反事件である。国家公務員法100条1項には「職員は職務上知りえた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様である」と規定し罰則も設けられている。この事件では、どのようにして秘密を洩らしたのかを立証する必要がある。元生安部長が現職時に知りえた秘密を文書にしたため、それを記者に郵送したということであるならば、証拠保全として当然その文書を押収する必要がある。当たり前の話である。捜索の制限規定が法に定められてはいるが、報道機関は特別なものではない。それではニュースサイトの運営先が任意捜査に応じるとでも言うのか。そうではないだろう。
この記者は、報道機関は捜索されないとでも思っているのだろうか。いや、それは考えられない。この記事には、記者の意図が見え隠れする。警察が権力を振りかざしているような記事を書き、あたかも警察が違法捜査でもしているかのような印象を与えたいのかと疑ってしまう。一方的な視点に誘導するような報道は厳に慎むべきだ。
このコラムばかりではない。近年の報道を観ると、不都合な事実は報道せず、片務的な報道ばかりたれ流しているような気がする。既存メディアの悪意を感じてしまう。メディアの役割は、中立的な立場で事実を報道し、それを国民に判断してもらうという姿勢を保つことだろう。そういう姿勢がメディアにないならば、この錯綜する情報の中で何が真実か、それは国民一人ひとりが鋭い視線を持ち、一方的な報道に惑わされないことである。